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日本製ラジオが日本人の評価を上げてくれた
国産への思い
一般社団法人ウェブ新聞社
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2018-3-27
筆者は1978年から1979年までの約2年間、イギリス南部にあるパブリックスクール(私立校)に在学し、全寮制であったため生活のすべてを外国人と過ごしていた。(両親家族は日本で生活) 学校には11歳から19歳まで約120人の生徒がいたが、国籍は多様。 当然だが一番多かったのはイギリス人、ほぼイングランド人だったと記憶している。 ヨーロッパではフランス、スペイン、スウェーデン等。アジアからはインド、タイ、返還前の香港。中東・アフリカからは革命前で裕福な環境にいたイランが最も多く、イラクやヨルダン、エジプト、サウジアラビア、スーダン、ナイジェリア、ケニア、マラウィ等。他にはジャマイカやアメリカからの生徒が一緒に生活していた。 当時はまだ戦後30数年、イギリス人在校生の中には近い親族が日本兵と直接戦った者もいて、日本人に対する意識は決して良いものとは言えなかったのだが、それ以上に辛かったのが、先生、生徒を含め皆が日本自体をよく知らないということだった。 ある日、地理の授業でアジアの白地図に国ごとに色を塗るという時間があったのだが、先生もよくわかっていなかったらしく、全員で日本を塗るという指示の際に私が正しく日本を塗った地図を間違いだと指摘され、強制的に中国の南部辺り、香港の近辺を日本として塗らされたこともあった。もちろん全員が指示通りにそこを日本として色を塗った。 私は「違う」と反論したが、当時のイギリスにおいて先生の地位は絶対であり、生徒が反論するなどもってのほかだと切り捨てられた。彼らにとっては日本も中国も変わらない蛮人の国。知らないというより、どうでも良かったのだ。 まだ13歳で自身も日本のことをよくわかっていなかったが、とにかく無性に悔しかった。 なぜ日本を知らないのか、と。 日本へは途中一回だけ春休みに帰国したのだが、日本で暮らす同世代の中学生よりも相当強く「日本人」であることを意識し始めていた私は、同時に日本人としてのプライドも持ち始めていた。 当然、みやげというか持ち帰って皆に見せるものは日本の発展を知らせ、尚且つ「すごいと思わせたい」という私自身の欲求を満たすものでなければならなかった。 子どもながらに小遣いの範囲内で考え抜き選んだものは、新宿高層ビル群の絵葉書(技術がすごいだろ)、新幹線の絵葉書(すごく速いんだぜ)、グリコのポッキー(すごく旨いだろ)、日清のカップヌードル(すごく旨いだろ)、いろんなせんべい(自分用)、日本地図(地理の先生用)だった。 あと数日でイギリスへ戻らなければならないある日のこと、父親がラジオを買ってきた。 短波放送が聞けるソニーのラジオだった。「これで日本の放送も聞けるだろ」父親の言葉が忘れられない。今とは違いインターネットどころか電話もままならない、手紙も片道2週間はかかる時代だった。向こうで日本と接触できることが何より嬉しかった。