国産を買おう!
国産をつくろう! 国産で行こう!
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国産をつくろう! 国産で行こう!
あなたはなぜ国産品を買わないのですか? 高いから? それとも気付いていないから?
安全で安心なものを求めるなら国産(日本製)です。
国産商店街は、より良いものを求める人々に国産メーカー等から提供されるより良い情報をお届けします。
国産商店街は、日本の土台とも言える「ものづくり」をおこない日本、日本人を支えている企業、団体、人々を力強く応援していきます。
国産で日本を再成長
「ものづくりの精神」「安全・安心の追求」
日本は他国とは大きく異なる文化を持つ国です。
太古の昔から日本人は、工芸品、食品等々すべて、自己が生み出したものに限らず、他国から入ってきたものを拒まず、最高のものに進化させてきました。
また、誰から言われるでもなく、手を抜かず、高品質なものを、日本人にとっての自然体で追求することで、他国の人々から見ると異常なまでの高度なものに発展させてきました。また、高品質のものづくりをする様子は他国から見てあこがれの対象までになりました。
これは他者を敬い、他者の感情を読み取り優先する(=使い手の気持ちを第一に考える)、日本人独特の道徳観によってなされたものと言っても過言ではありません。
逆を言えば、ものづくりによって日本人の精神や道徳観が形成されてきたとも言えるでしょう。
作り手の気持ちが使い手に勇気を与える
真面目に最高のものづくりをする者たちを知り、称賛し、使い手自身の励みになっていく。
世界中の使い手に称えられるものづくりに支えられ、日本人は秘めたプライド(高飛車ではない)を持つことで、国を豊かに成長させてきました。
ただ昨今では、「コストダウン」、「グローバル」等の言葉を履き違え、ものづくりを軽視し品質をおざなりにしてまでも目先のマネーを優先する経済人たちが唱えた、流感にも似た呪文によって、日本人の感性を持たない地域での生産、すなわち海外生産すべてが良しとされてしまいました。
もちろん、ものによってはその方法が最善の場合もありますが、創業時のものづくり精神を忘れ、海外生産において高い品質管理が機能せず失敗した、もしくは失敗しつつある企業の現在の様子は「当然」と言えるでしょう。
要約すれば、日本人によって生み出されたものは日本人によって生産、管理しなければ高品質を保てず、低品質で低価格という泥沼でしか戦うことができなくなる場合が多い、ということです。さらに言えば、品質で戦わなければ長年かけて得た「高品質」という印象はごく短い期間で消え去り、同時に大手企業でも同様に数字では表せない社内の「ものづくり文化」をも捨て去ってしまうことになります。
国産商店街はあらためて日本がすべての人にとって「最高のやりがい」のある国にすべく、国産品に注目を集め、購買を促し、雇用を生む道をつくってまいります。
賛同して頂ける方々、どうぞご協力をお願いいたします。
国産商店街からのニュース
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日本製ラジオが日本人の評価を上げてくれた
国産への思い
一般社団法人ウェブ新聞社
一般社団法人ウェブ新聞社
2018-3-27
筆者は1978年から1979年までの約2年間、イギリス南部にあるパブリックスクール(私立校)に在学し、全寮制であったため生活のすべてを外国人と過ごしていた。(両親家族は日本で生活) 学校には11歳から19歳まで約120人の生徒がいたが、国籍は多様。 当然だが一番多かったのはイギリス人、ほぼイングランド人だったと記憶している。 ヨーロッパではフランス、スペイン、スウェーデン等。アジアからはインド、タイ、返還前の香港。中東・アフリカからは革命前で裕福な環境にいたイランが最も多く、イラクやヨルダン、エジプト、サウジアラビア、スーダン、ナイジェリア、ケニア、マラウィ等。他にはジャマイカやアメリカからの生徒が一緒に生活していた。 当時はまだ戦後30数年、イギリス人在校生の中には近い親族が日本兵と直接戦った者もいて、日本人に対する意識は決して良いものとは言えなかったのだが、それ以上に辛かったのが、先生、生徒を含め皆が日本自体をよく知らないということだった。 ある日、地理の授業でアジアの白地図に国ごとに色を塗るという時間があったのだが、先生もよくわかっていなかったらしく、全員で日本を塗るという指示の際に私が正しく日本を塗った地図を間違いだと指摘され、強制的に中国の南部辺り、香港の近辺を日本として塗らされたこともあった。もちろん全員が指示通りにそこを日本として色を塗った。 私は「違う」と反論したが、当時のイギリスにおいて先生の地位は絶対であり、生徒が反論するなどもってのほかだと切り捨てられた。彼らにとっては日本も中国も変わらない蛮人の国。知らないというより、どうでも良かったのだ。 まだ13歳で自身も日本のことをよくわかっていなかったが、とにかく無性に悔しかった。 なぜ日本を知らないのか、と。 日本へは途中一回だけ春休みに帰国したのだが、日本で暮らす同世代の中学生よりも相当強く「日本人」であることを意識し始めていた私は、同時に日本人としてのプライドも持ち始めていた。 当然、みやげというか持ち帰って皆に見せるものは日本の発展を知らせ、尚且つ「すごいと思わせたい」という私自身の欲求を満たすものでなければならなかった。 子どもながらに小遣いの範囲内で考え抜き選んだものは、新宿高層ビル群の絵葉書(技術がすごいだろ)、新幹線の絵葉書(すごく速いんだぜ)、グリコのポッキー(すごく旨いだろ)、日清のカップヌードル(すごく旨いだろ)、いろんなせんべい(自分用)、日本地図(地理の先生用)だった。 あと数日でイギリスへ戻らなければならないある日のこと、父親がラジオを買ってきた。 短波放送が聞けるソニーのラジオだった。「これで日本の放送も聞けるだろ」父親の言葉が忘れられない。今とは違いインターネットどころか電話もままならない、手紙も片道2週間はかかる時代だった。向こうで日本と接触できることが何より嬉しかった。